「正常とは『憂鬱を感じる能力』でもある」と途中先生はおっしゃっています。
この話に至る前に、先生は精神病の説明をされています。それは、躁うつ病の「躁状態(マニック)」だったり、統合失調症の過剰な神経伝達物質の活動状態だったりが示す、一種のお祭り状態のような精神状態のことです。これは「頭の中で起こっている状態が全て」ということで、つらい現実を見ないようにしているからこそ起こるのだと精神分析では考えます。
ちなみにフロイトの精神分析では、エディプスコンプレックスが示すように「三者(三角)関係」における「葛藤」が大きなテーマでした。これは、母親と子どもの融和関係を分断する、父親の存在ということが象徴的な物語として示され、その間で「上手くやる」ことが人間の成長であるとしたわけです。そしてさらにフロイトはこの象徴的な3角関係の物語を用い、「超自我−自我−イド」という内的な三者関係のあり方、あるいは「現実原則」と「快楽原則」との間の心の調整力の中に、人間の心の成長、あるいは葛藤が上手く乗り越えないことが原因で起こる「神経症」という病気の成り立ちを読み取ろうとしました。
しかしながら「精神病」状態は、3者関係だけでは十分に説明できない。つまり現実を無視して、「自分の頭の中にある世界がすべて」という理解で問題を回避しようとしてしまう。
このあたりのメカニズムについては、フロイト後の精神分析の第二世代、特にメラニー・クラインがより詳しくそのメカニズムを解明しました。クラインは幼児の心の成長に注目し、「妄想分裂ポジション」から「抑うつボジション」という流れで移りゆくことを発見したのです。
この「抑うつボジション」に至る説明と、北山先生の「正常とは『憂鬱を感じる能力』でもある」という話は合致しています。しかしながらメラニー・クラインの理論は専門家でもかなり難解な部分があって、その点を北山先生は、「覚める」という日本語を用いながらわかりやすく説明されようとしているのだと思います。
心が成長して熱が冷めて現実が見えてくると(=覚める)、ある意味楽しさだけでなく、寂しさ、不安、落ち込みという感情に出会わなければならない。こうしたものときちんと出会い、上手く付き合えるようなこころの仕組みができていくことが、ほんとうの意味で「成熟」となるわけで、ネガティブな感情がいつまでも上手く扱えないと、心の病にかかりやすくなってしまうわけなのですね。
本当はポジティブな感情や体験だけで生きたいわけですが、現実はそうではない。この事実は、人を容易に「うつ」にさせるわけなのですが、こうした事実を落ち込みながらも受け止められること自体が「正常だ」というのが今回のお話。
難解で重苦しい話だったと思いますが、投げ出さずに何となくここまで読んでくださった方は、生きる中での耐性をある程度お持ちなのかもしれませんよ。
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